寂光院へ行く道はのどかな山の里を見ながら歩いていきました。



時折風が強く吹いてモミジがチラチラ舞いましたが、周りも赤くてどれが舞い落ちるモミジか区別付かないですね。
寂光院前のお漬物を売るお店。煙突の煙を見るのもなんだかとても久しぶりです。

山門

寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。
初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照(たまてるひめ)[敏達13(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で慧善比丘尼という]で、その後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられるが、史料がなく詳細が分からないため、阿波内侍(あわのないし、藤原信西の息女)を第2代と位置づけている。崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家のあと永万元年(1165)に入寺し、証道比丘尼と称した。出家以前は宮中にあった建礼門院に仕え、この草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされている。
第3代の建礼門院(平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母)は、文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れた後、寂光院に侍女たちとともに閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごした。
(以上 寂光院HPより抜粋しました)
本堂

本堂には建礼門院と阿波内侍もお祀りされていました。
本堂では住職さんから寂光院の歴史や建礼門院徳子さんのお話も聴くことができました。
本尊 六万体地蔵菩薩
本堂には、国宝修理所の故小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、落慶式と同時に、魂入れの儀式として入仏式が厳修された。鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色である。
豊臣家寄進の雪見燈籠


池の水もとても澄んでいてきれいでした。
本堂の奥に建礼門院御庵室跡がありました。
建礼門院徳子さんは29才でこの場所に庵を結び、壇ノ浦で滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔い祈りをささげる生活を送っていたそうです。
壇ノ浦以前の暮らしは華やかな都の暮らしをしていて、その後本当に何もない山里でひたすら仏様に祈りをささげる生活ってどんなものなのだろうと思ったりしました。
栄枯盛衰という言葉が身近に感じられる場所でした。

寂光院には宝物殿もありました。
館内は撮影禁止。
木造小地蔵菩薩など、旧本尊・地蔵菩薩立像(重要文化財)の像内納入品の一部も展示されています。
寂光院は初めて訪れました。
平家物語を身近に感じられるお寺でした。
大原バスターミナルに戻り再び地下鉄国際会館駅までバスに乗りました。
この記事へのコメント
eko
寂光院は三千院から歩いて行ける距離なんですね。道沿いの紅葉がまだ綺麗ですね。
寂光院はひっそりとした風情が紅葉で彩られていますね。
建礼門院の栄枯盛衰が感じられる寺院ですね。
イッシー
平家とゆかりがあるんですね。
行ってみたいですね~。
ゴンマック
寂光院、よく手入れがされていますね。
静かな感じがして、参道も風情があり
ますね。
ミズバショウ
寂光院は人里から離れた奥まった所の雰囲気があって本堂は質素でわび・さびの言葉が似合いそうです。平家に由来する尼寺と言うのは初めて知りました。
miya
私も歩いてみたくなりました。
煙突の煙も確かに最近は見る機会もないですね。
舞うモミジの中を歩くのも風情がありますね。
るなまる
尼寺らしく静かな佇まいです
紅葉の時に訪れていい雰囲気ですね
かるきち
寂光院と三千院、思ったよりも離れていなくて歩いて行けました。
三千院は海外からの人も案外いましたが、寂光院に訪れてくる人は少なかったです。京都には平家ゆかりのお寺も多いですが、寂光院はよりいっそう平家物語の悲哀を感じることができました。
かるきち
尼寺ですが、本堂で説明をしてくれたのは男性の方でした。
今は男性の力も必要かもしれませんね。平家ゆかりのお寺と聞くとなんだかうなずける雰囲気でした。
かるきち
寂光院の雰囲気は女性らしい感じのお寺ですね。人里離れたこのお寺で暮らした建礼門院、どんな生活だったのだろうと想像してしまいました。
かるきち
今でも大原というと京都市内から離れた場所という思いがありますが、平家の時代にはもっと遠く感じた場所でした。
侘び・寂という言葉がぴったり合うお寺ですね。
かるきち
大原の里、京都から車で30分足らずの場所なのにとても静かで鄙びた雰囲気が歩いていても癒される場所でした。
煙突のけむりもここの場所によく似合いますね。
舞うモミジがすてきでした。
かるきち
寂光院の鄙びた感じが大原の里の雰囲気そのものでした。
また晩秋の季節の雰囲気とよく合いますね。