一石橋の手前に古い石碑が
一石橋迷子しらせ石標
江戸時代の日本橋~一石橋界隈は盛り場で、迷子や尋ね人が多かったようです。当時迷子は町内が責任をもつことになっており、安政4 年(1857)近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました。
正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「志(し)らす類(る)方」と刻まれています。両側の上部に方形の窪みがあり、左側の窪くぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪くぼみに貼りました。いわば江戸庶民の告知板でした。湯島天神(現存) や浅草寺(復元)、両国橋等、往来の多い場所に同様のものがありました。
一石橋の北に金座支配・後藤庄三郎、南に呉服町頭取・後藤縫殿助の屋敷があり、後藤(五斗)を二つ足して一石橋の名が付いたといわれています。
(以上東京都文化財巡りHPより)
現在は鳩さん達の憩いの場になっていました

一石橋を渡り、川沿いに沿ってふたたび東京駅方面に戻ると常盤橋交差点の向こう側に日銀のビル
今回もミラーレスでまたジオラマ機能で。
最近のお気に入りの機能です

常盤橋から戻りました。
この記事へのコメント
HT
迷子しらせ石標なんていうものがあるのですねぇ。江戸時代の頃から迷子が出るほど賑わっていたのですねぇ。
東京にはこうして昔の物が現在までキチンと残されていて、こうして散策していても楽しそうですねぇ。
mori-sanpo
当時としては画期的な情報伝達の方法だったと思います。
日銀ビルが霞が関ではなく、常盤橋交差点の近くにあるのは不思議ですね。
ミズバショウ
茜雲
デミ
急ぎ足だと通り過ぎてしまいましゅねっ
日本橋はもう一度東京のシンボルに復活してほしい場所でしゅ・・・
このままだと・・・しゅこしさびしいあるよぉ~
無門
一石橋
昔子連れ狼の中で
「母御と父御と五斗と五斗・・一石橋で・・」
というセリフがありました
迷子の札の場所だったんですね